それから、Homeに飽きた健康な人(妹だ)に、「何か他の曲も聴きたい」と言われ、私は、確か父が好きだったはずだと、安全地帯の「ワインレッドの心」を弾き語りで聞かせた。
父が一番好きだった曲のはずなのに、母の反応がいまいち薄いなぁ…と思いながら弾き終えた時、私は思い出した。
父が好きだった曲は、ワインレッドの心じゃない。渡哲也さんの「クチナシの花」だ。私は何故かこの全然違う二曲を混同する癖がある。やってしまった。
失敗に気づいた直後、父の計器の数値が下がった。警告音が鳴る。
「お父さん? お父さん!!」
ガーーーーーーーーン。
父はワインレッドの心がお気に召さなかったのかもしれない😭
とにかく私はエレガットを然るべき場所に戻し、家族を呼び、ついに決断した。
「〇〇、帰りの新幹線、キャンセルして!」
今日帰れないかもと思ってはいたのだろう、「分かった」と、すぐに真ん中は手続きをしていた。
しばらくして「新幹線キャンセルした」と、無事月曜日会社を欠席することが決まった真ん中が来て、みんなが父の周りに集まった。
「お父さん、お父さん、頑張れ」
「じいちゃん、“おらはまだ逝かんぞ”って言ってる」
しばらくみんなが父の周りでワイワイやったのち、何とか数値は落ち着いた。
この時は本当にほっとした。このまま父が亡くなったら、私が「ワインレッド」で弾き〇したみたいになって、罪悪感に苛まれたに違いなかった(泣)
ただ、この辺りから、父の体調を示す数値は緩やかだが確実に、下がっていった。
何時間かして、数値が劇的に下がり、家族を呼んで、父にみんなで呼びかけ、また父が持ち直し、そのまま父の周りでワイワイやった。
危篤の父を取り囲んでその時我々がしていたのは、今更すぎるMBTI診断だったw
でも父は、みんなが周りでワイワイやってるのが、嬉しかったに違いない。孫たちをとても大切にしていた父だから、みんなが傍でどーでもいい話をしているのを、心では微笑みながら聞いていたんだと思う。
それが昼過ぎだった。
それから5時間ほど経った頃、私は家族LINEに「そろそろです」と送っている。
そこから、またみんなが父の周りに集結した。
ペースメーカーも緩やかに停止に向かっているようで、脈がもう取れないくらい、少なくなった。呼吸の間隔も長くなって、だんだん呼吸停止に向かっていっている感じがした。
ただ、衝撃だったのが、父はちっとも苦しそうにしていなかった。
最後の最後まで、穏やかだったのだ。
最後の瞬間の少し前、周囲のことはあまり覚えていないが、泣く母と妹、謎に父の心情を代弁し続けていたうちの長男、そして私は、ギター教室の先生の言葉を思い出していた。
“聴覚は残っていることが多く…”
何か、何か言わなければならない。
私は父の隣で、喋り続けた。が、喋るのが元来得意ではない私だ。ネタが尽きかけ、1回止まった。
父が…父が気にしていることは、何だろう。気がかりなのは、どのことだろう?
私は再び喋り出した。
「庭のことは、とりあえずしばらく維持するつもりでいるから、心配要らんよ。私らがどこまでやれるか分かんないけどね。畑のことは、できる範囲で、お母さんがやるみたいだから、無理ない程度に…」
私がそう、言っている途中で、父の呼吸は止まった。
「もう、逝っても大丈夫」と、思ってくれたのかもしれない。
そろそろです、のLINEから、二時間ほど後だった。父は、76年の生涯を閉じた。
与えられた命という電池を、ギリッギリまで、最後の最後まで使い切ったような、とても穏やかな亡くなり方だった。
「家に帰るまで持たないかもしれない」と思われた父は、何度も何度も何度も何度も復活し、最終的に、退院してから丸三日以上を、愛した自宅で家族に囲まれて過ごした。
改めて振り返ってみると、やっぱり、凄い人だった。真似出来ないなぁ、と思う。
しかし私は、あの父の娘なのだ。
だから、その事を誇りに思い、これからを生きていこう。そう、誓った。
長い長い介護記録(?)をここまでお読みいただきありがとうございました。
長すぎて恐縮なのですが、番外編としてその後の話をちょこっと載せようと思っています。
もう少しだけお付き合いいただけると幸いです。


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